「命けずる人」
桂枝雀をスクリーンで観る。
そんなん、家にDVDあるやん。
大型テレビあるやん。
それでも出かけて行ったのは、擬似体験をしたかったからだ。
枝雀はんを好きな人たちと、一緒にげらげら笑ってみたい。
この日運悪く、私は人生でもワースト3に入る辛い事実を告げられた日だった。
さすがの枝雀師匠でも、今の私を笑わせるのは無理ちゃうかな。
楽しみにしていたチケットの価値が半減した気分で、出かけていった。
会場の平均年齢は高い。「3日間昼夜ぜんぶ観る」という声もちらほら。
私はシビアに「会場の割にスクリーンが小さいな」と思った。
最初に「今日このごろ」というコーナーが流れる。
デパートでのエピソードを、愛嬌たっぷりに語る枝雀師匠。
映像の中の客に遅れて、現代の客が微笑む。
画質も粗いし、単に大きなテレビを見せられているような感覚。
これで結構な金(2500円)取るなぁ。
ぼんやりとした不満を抱きながら、座っていた。
一席目、「時うどん」。
扇子を見失ってきょろきょろする枝雀師匠に、会場がきゃっきゃとうれしがる。
放送もDVD化もされない「アクシデント」込みの貴重映像。
師匠は照れながらもスクリーンと中と外の会場をあのへらへら笑顔で味方につけ、オーバーアクションで愛すべきアホを演じる。「ほれほれほれ」と顔周りでひらひらさせる手の動きが過剰になり、前の席の中年男性がつられて手を動かしていた。笑いのタイムラグはすでに無く、私も辛いうどん汁を涙目で「ブーーッ」と吐く姿に同情しつつもキャッキャと笑う。
すごい。
生で観た柳家喬太郎の「時そば」に負けない熱量で、会場をどっかんどっかん言わせている。
頭を下げる枝雀はんに拍手を送った後、ふと皆が我に帰る。
ああ、映像だった。
もういはらへんねんな。
びゅっと心の中がさびしくなる。
トークゲストは三遊亭円楽だった。
あんな奔放にやれる枝雀をうらやましい、うらやましいと繰り返す。
「本当は円楽を継ぎたくなかった」
「楽太郎のままなら、ほらちょっとスマートで洒落物のイメージで軽くやれたじゃない」
先代や圓生の物まねを入れながら、まさに軽快に話していく。
最後に、司会が「枝雀師匠に質問したいことは?」と尋ねた。
彼は、ぼろんと重い本音をこぼす。
「どこに行きたかったんですか?」
やってもやってもやっても満足しない。
笑わせても笑わせてもなお笑わせたい。
そう願った果てに、命を絶った人。
二席目の「高津の富」。
歌舞伎座の横長の舞台に、ぽつんと一人。
アホちゃうか、師匠。
歌舞伎座やで。
貧乏学生のころ、4階席から小さな揚巻に目を凝らした。
傾斜のキツい、大きな劇場。
その会場の端から端までを、笑わせたい。
座布団から離れられないってのに。
白い顔に、心配になるほどの汗。
富くじを買った男の話、初見なので素直に話に入り込む。
この日のハイライトはどこかと聞かれたら、「二番の五百両が当たる夢を見たオッサンの一人語り」と答える。
主人公ともストーリーの軸とも関係無い、脇役のオッサンが妄想を爆走させる。宝くじがあたったらお気に入りの女郎を受け出して家を借りて、差し向かいで飲んで「ええあんばいになったなぁ、寝よか」って言うていやもう照れまんがなと詳細に語れば語るほど周りはドン引き。観客の私も少し後ずさりしたくなる。
五百両を当たったものと思いこんで夢をきゃぴきゃぴ語るこのオッさんのくじは、果たして当たるのか?
「辰のぉーーはっぴゃくぅーーーごじゅうーーー」
「七番かぁッーーー?」
「いちばーん」
ぐわーっと盛り上げて、ぺしゃんこに夢をぶっつぶす「緊張と緩和」理論の体現に観客もぷしゅーっと空気が抜けてだらしなく笑いつづける。
もう何をしてもおかしい。
腹いてぇと思いながら、私は師匠が心配になる。
汗がすごい。目が笑ってない。
今度は主人公がくじの結果を見にくる。
人が引いた境内、ぽつんと一人。
もう一度緊張感を作っていく。
「一番が『子(ね)の千三百六十五番』……。ふーん」
当たりに気づかない主人公にジレジレする観客たち。
「子ぇの千三百六十五番……何や似てるような」
「(張り出しを見て)あれが、『子の千三百六十五番』(くじを見て)これが『子の千三百六十五番』。あれ?(何度も見比べる)……あたたたたったったたたたたたたた」
たたーたたたーたた言いながら宿屋に転がり込んでサゲ。
思わずスタオべしかけるほどの爆発力があった。
理論だけで、人の心は動かせない。
大熱演あっての「緊張と緩和」。
枝雀師匠は、頭を下げ、ふらりふらりと帰っていった。
あのまま舞台袖で倒れこんだのではないかと思うほどに、透き通っていた。
命を削る、魂を削る、芸に身を捧げる。
言葉で書くとあまりにも雑だ。
同じ芸人までもが「どこに行きたかったのか」と問いたくなるほどの、情熱。
私は彼が、小心者だったんだろうなと考える。
自分もそうだからだ。
料金分、笑ってほしい。
端っこの席でがっかりした人にも、きてよかったと思ってほしい。
なんで歌舞伎座なんかで始めてしまったんやろ。
広いわ、この会場、あかん、自信無い。
首を伸ばせるだけ、手を伸ばせるだけ。
顔も動くだけ、のばしたり縮めたり。
笑いの余韻の中で、私は泣いてしまった。
その熱意はスクリーンの向こうから、22年後でもちゃんと届いたからだ。
人生で3番目ぐらいに辛い日なのに、げらげら。
枝雀師匠、どこに行きたかったんだろう。
客を笑わせても笑わせても行けない場所。
私は勝手に、以前書いたとおり「ここ」に行きたかったんやろうなと思っている。
ぐったりする観客の前に、別の日の枝雀はんが今度は元気いっぱいに出てくる。
三席目、「壷算」。
こちらは追いかけてくる壷屋の困り顔がすべてだ。
首をかしげる壷屋にうふふふふと笑いながら、会場は幸福感でぎっしり。
好っきやわー枝雀はん。
お帰りなさい、今日はおおきに、また来てや。
皆があの世の人に全力で拍手を送り、ほんわりした「ええ顔」で会場を出ていく。
彼岸から笑わせに来た、そしてやってのけた。
私もパンフレットをぎゅっと抱く。
どうしようもなく悲しい日だったからこそ、
今日、会えてよかった。
ほんまにおおきに。
……最後に一つ、お願いをさせてください。
あっちの世界に帰る時、その辺でふわふわ迷子になってるちっちゃな子どもを、連れて行ってやってほしいんです。私のお腹から、ふらっと出て行ってしまったみたいで。
よく笑う、ええ子やと思います。
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