「算法少女」 遠藤寛子
「算法少女」遠藤寛子(1973年)
何気なく本屋で手に取りました。児童文学なので大人ならさっと読めます。
ぜひ、算数・数学好きの子どもに読んでほしい一冊です。
江戸時代、父の影響で和算(日本の数学)を得意とする「千葉あき」という13歳の少女を主人公に、対決ありサスペンス風味ありで進んでいく読み物。身分差が厳然とあり、しかも女性が学問をすることが難しい時代に「算法が得意な町娘」が主人公だなんて、設定だけでわくわくします。
その期待に応えるかしこく優しい主人公の成長と、天才を囲む周りの大人たちの思惑が物語を展開させていきます。子ども同士の交流も愛らしく、和やかな空気があります。やわらかな文体のせいかもしれません。
その一方で、学問の流派の違いで揉める滑稽さ、厳しい人々の生活といった大人社会の側面も映し出します。それだけに「答えがゆるぎない」数学の特質が、輝いてみえます。
================
「いったい、算法の世界ほど、きびしく正しいものはありますまい。どのように高貴な身分の人の研究でも、正しくない答えは正しくない。実にさわやかな学問です」
=================
こんな言葉に突き当たると「数学偏差値40台」のまま学生生活を終えたことを、ちょっと後悔もします。合間に出てきた問題の計算法がまったくわからず、うろたえてしまいました(笑)。
算数ギライの子も、主人公を応援しているうちにその魅力を知るかもしれません。
私は久々に小学生ぐらいの気持ちになって読み、あきが貧しい子に九九を教え始めたあたりでは一緒に習いたい思いでいっぱいになりました。
実際にモデルとなった少女が残した当時の数学の指南書を基に、国語教師であった作者が書いた児童文学で多数の賞を得ています。長いこと廃刊になっていたのが、数学の先生をはじめ復刊運動が起こって蘇ったようです。
しかし、子どもの気持ちに戻っていても以下のような文章が引っかかります。
=================
「お千代ちゃん(あきの友達)、たいへんね。おけいこ、おけいこで」
ひとりが同情していう。けい(友人の一人)が、首をかしげて
「お千代ちゃん、なんであんた、そんなにいろいろおけいこするの?おどりのほかに、お三味線も、お琴もでしょ」
「あんたしらないの?お千代ちゃんは、お屋敷へあがるためのけいこなのよ」
================
当時の少し裕福な家庭では、娘を武家の屋敷に「行儀見習い」と称して、仕えさせるための仕込みで懸命だったのです。この台詞の「おけいこ」を「塾」または「習い事」にして、「お屋敷」を「私立中学」に変えると現代でも違和感がありません。しかもこの後「お千代ちゃんの家は、お金持ちだから、行儀見習いにもあがれるのね」と続きます。お屋敷に上がるとさまざまなお金がかかるとのこと。一緒ですね(笑)。
あきが娘らしいことをしないで問題を解いているのを「算術なんかじゃお屋敷に上がれない」と苦々しく思う母親、そして算術オタクで生活力の低い父親、保護者の姿も人間くさくて面白いです。
また、この本は「純粋な知の喜び」を思い出させてくれます。
叱られないためでも、褒められるためでも、
合格するためでも、卒業するためでも、
資格を取るためでも、稼ぐためでもなく。
問題を解くことが面白くてたまらない、あきの夢中になっている姿に昔の自分を重ねます。小中高と学校図書館に入り浸り、特に高校生になってからは「とりかへばや物語」「夜半の寝覚」「落窪物語」と言った平安のマニアックな古典にハマって、原典を注釈を頼りに必死に読んでいました。そこにはただ「なんて書いてあるのか知りたい」という素朴な欲求のみ。「夜半の寝覚」に至っては未完だったので、大学に行ったら文体研究をしてこの続きを当時の文体で書くんだ、というワケのわからない野望を持っていました。
しかし、一人暮らしの解放感と「学説」が飛び交う国文学研究の面倒さに、あの陶酔するような「知的欲求を満たす快感」を置いてきてしまいました。なんてこと!
「もっと知りたい、解くのが楽しい」という素朴な喜びを、取り戻したくなる一冊です。
そういう意味では、大人にもオススメです。
================
◆くろねこ@国語塾:役立つ厳選バックナンバーはこちら
http://www.kuroneko-kokugo.com/study.htm
◆質問・ご意見はこちら>>メール
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)




最近のコメント