塾講師のプロ意識
毎日、京進での事件の報道を見ています。
その中で、論調が「塾講師とはどういう仕事か」という議論になっているものも見受けられます。
私は「教師は聖職」という言葉が嫌いです。
穢れなき人格が、教壇に立つべきという考え方。
それを内面も行動も全て実現している人を、私はほとんど知りません。
事務室で愚痴を言ったり、
たわいのない話をしたり。
それぞれに家庭もあり、現実の生活がある。
私たちは普通の人間です。
ただ「教えること」を仕事にしています。
美容師が、客に似合う髪型を提案し、その人の魅力を引き出すように実現し、気持ちよく帰ってもらう。彼らはその技術を磨き、サービスに徹します。
塾講師は、それぞれの子どもを観察し、能力を引き出し、わかるように教えてやらせきり、合格させて送り出す。そして「合格させて」と同時に「勉強の仕方と根性を身につけて」=「自立させて」卒業させる、という意識を持っています。
入試問題研究や、生徒状況の把握は当然の仕事です。子どもを精神的に不安にさせない、いつでも質問に来られる関係作りに努める、保護者と連絡を取り合う…全てが「塾講師」のプロとしての仕事です。私の商品は授業です。私自身ではありません。塾に身を置いている時間は、プロとしてその商品の提供に努めます。
子どもに愛情が無い、のではありません。
しかし「子どもに対する愛情」などという不確かなものに頼っていては、好き嫌いや喜怒哀楽に左右されて「高品質で安定した商品」を提供できないのです。実際、素晴らしく授業がうまく、いつも生徒に取り囲まれていた先生で「実は子どもが好きなわけではない」と言っていた人がいました。
教師は聖職だから、子どもを愛していて当然。
子どもを愛しているから、絶対に傷つけない。
…自分が仮にそうだからと言って、「教師は聖職、子どもが好きじゃない教師なんて信じられない」というのはどこか違う気がします。それ以上に大切なのは「私たちは何のプロか」という自覚です。
学校教師であれば、子どもから何を引き出すべきか。
塾講師であれば、子どもをいかに鍛えるか。
私は子どもが好きです。いえ「子どもの集団が好き」と言ったほうが正確かもしれません。あちこちから予想もしない答えが飛んでくる。色んな子の個性が授業を活気付ける。そして教室を満たす笑い声の魅力。しかし過剰に思い入れても、やがて彼らは巣立っていきます。以前「二度と塾に来るな」と言った塾教師の話をしましたが、私も同感です。プロとして、最大限の努力をして鍛えて送り出す。
塾講師になりたてのころは、子ども達に「先生」と慕われることが快感でした。
特に、小学校・中学校といじめに合っていたので、子ども時代をやり直すような幸せな錯覚に陥ったものです。
しかし、すぐに気がつきました。
最初の年に受け持った生徒がラサールや洛南を目指すトップ層だっただけに、「プロとしての未熟さ」を見抜かれそうになりました。彼らは「馴れ合う先生」を見抜くと、手を抜き始めます。陰で他の教師を馬鹿にする発言も何度も聞きました。おそらく、私も言われたこともあるでしょう。
彼らに頼られ、宿題の重要性を説き、合格するまで鍛えて送り出さねばならない立場。
そう自覚してから、私は「厳しい」「怖い」と嫌われることを恐れるのをやめました。
集中力を切らさない授業。
全員に目を配りながら、「わかった」と実感させる授業。
次に自分で問題を解くときに、応用できる考え方の指導。
小テストや宿題によって、訓練をして定着させる強制力。
「わからない」サインを見抜き、質問をさせる能力。
やる気を喚起する褒めと叱りの技術。
プロとしての仕事はたくさんあります。
その中に「子どもの安全を守る」は当然あります。健康状態を気にし、教室や塾の行き帰りでケガをしないように注意し、家庭と連絡を取る。
何となく自分のキャラクターで授業を成立させてしまう、相性のいい生徒には好かれる。過剰になり過ぎる。そのくせ、やらせきることができない。生徒に感情移入するあまり、接し方や態度にムラがある。
こういった先生、特に若い先生は、私もそうでしたが勘違いをしがちです。
「聖職だから」
「子ども好きなはず」
そういう思い込みを捨てて、「プロ」に仕上げてから教師を現場に送り出す必要性が、どの塾にも、そしておそらく学校にもあると思います。
ただ今回の事件は、講師と生徒の関係性に何度かサインが出ていたようです。私の書いたことは「外部からのキレイごと」に読めるかもしれません。
しかし、保護者もマスコミも「塾講師とは」という定義づけに混乱しているようなので、自分の見解を書いてみました。
塾講師はサービス業です。
商品は、授業。授業を成立させるためのしつけ。自分で勉強できる子どもに育てること。
そして子どもに接する時間、保護者に接する時間、与える安心感の全てです。
それを「立派な人材を輩出したい」という志でやれる人は、少数です。
私自身も、その少数なのかどうかさえ、自分ではわかりません。
私は教職免許を持っていません。
「教育者」と自分のことをこのブログで書いたこともありますが、それは「プロとして教育を仕事にしている人間」という意味です。日本の将来を憂いもしますが、目の前に需要がある塾講師の仕事もプロとして否定しません。誰かがやらなければならないのです。
今後、中学入試の加熱やゆとり教育にまで議論は及ぶと思います。
過去の関係者として、今さら何を言っても擁護か内情暴露にしかならないだろうと悩みつつも、
今後の「塾の在り方」について建設的な提案ができるように
今回の事件について、1人の塾講師として考え続けていきたいと思います。
亡くなった少女は帰ってこない。
保護者の信頼を裏切り、悲しませたこと。
塾業界全体を揺るがす「あってはならない事件」が起きてしまったこと。
谷川俊太郎の詩に「事件」という詩があります。
事件が起こると、人々は騒ぎ、報道する。
時間が経ち、誰も事件の話をしなくなる……
「忘れることは 事件にならない」
この一行がいつも胸に刺さります。


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